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東京地方裁判所 平成6年(行ウ)313号 判決 1996年2月28日

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

理由

【事実及び理由】

第一  原告らの請求

一  被告が平成三年三月一一日付けでした原告甲野一郎の平成元年九月一一日相続開始に係る相続税の更正(ただし、国税不服審判所長が平成六年六月三〇日付けでした裁決により減額された後のもの)のうち課税価格七九七八万四〇〇〇円、相続税額一六五一万五七〇〇円を越える部分及び過少申告加算税賦課決定(ただし、国税不服審判所長が平成六年六月三〇日付けでした裁決により減額された後のもの)を取り消す。

二  被告が平成三年三月一一日付けでした原告乙山松子、同丙川竹子、同丁原梅子及び同甲野二郎の平成元年九月一一日相続開始に係る相続税の各更正(ただし、国税不服審判所長が平成六年六月三〇日付けでした裁決により減額された後のもの)のうち課税価格二〇〇〇万円、相続税額三九六万三七〇〇円を越える部分及び過少申告加算税賦課決定(ただし、国税不服審判所長が平成六年六月三〇日付けでした裁決により減額された後のもの)をそれぞれ取り消す。

第二  事案の概要

本件は、個人病院を経営していた被相続人の死亡によってその財産等を相続した原告らが、右病院の従業員であった原告甲野一郎(以下「原告一郎」という。)及び甲野春子(以下「春子」という。)と被相続人との雇用関係は被相続人の死亡によって終了し、右両名に対する退職金債務が発生したとして、右各債務を相続財産から控除して相続税の申告をしたところ、被告から、右各債務の控除は認められないとして、平成三年三月一一日付けで相続税の更正(ただし、国税不服審判所長の平成六年六月三〇日付けの裁決により一部減額された。右減額後のものを以下「本件各更正」という。)及び過少申告加算税の賦課決定(ただし、国税不服審判所長の平成六年六月三〇日付けの裁決により一部減額された。右減額後のものを以下「本件各賦課決定」といい、本件各更正と併せて「本件各課税処分」という。)を受けたため、本件各課税処分の取消しを求めて出訴した事案である。

一  当事者間に争いのない事実等

1 原告らの相続及び事業承継(以下の事実は、いずれも当事者間に争いがない。)

(一) 甲野太郎(以下「太郎」という。)は、昭和四二年一二月六日付けで東京都知事から衛医医許一一四九五号をもって東京都板橋区《番地略》において病院(以下「甲野病院」という。)を開設することを許可され、同所で病院経営を開始した。

甲野病院が開設された当初のころから、原告一郎は医師として、同人の妻である春子は薬剤師としてそれぞれ同病院に勤務していた。

(二) 太郎は、平成元年九月一一日に死亡し、原告らが、太郎の妻である甲野花子(以下「花子」という。)と共同して太郎を相続(以下「本件相続」という。)した。

花子及び原告らが本件相続によって取得した相続財産(以下「本件相続財産」という。)の内容及び価額は、別表2の1の順号1ないし8記載のとおりである。

(三) 平成元年九月一六日、花子は、東京都知事に対し、甲野病院の経営者である太郎が同月一一日に死亡した旨の届出をした。

同月一九日、原告一郎は、東京都知事に対し、太郎が病院を経営していたのと同一所在地・同一名称での病院開設許可申請をした。

原告一郎は、同月二八日付けで東京都知事から衛医医許二七三九六号をもって右申請に係る所在地・名称での病院開設を同月一二日にさかのぼって許可された。

春子を始めとして、太郎の従業員として勤務していた者は、本件相続後も引き続き原告一郎の従業員として甲野病院に勤務していた。

(四) 平成二年一月二〇日、太郎の相続人全員の合意に基づく遺産分割協議書(以下「本件分割協議書」という。)が作成されたが、それによると、花子が家庭用財産を相続するほかは、原告一郎が甲野病院を含む本件相続財産及び右価額からその金額を控除すべき債務の全てを相続し、その代償として、他の相続人に対して別表2の1の順号8記載のとおりの代償金を支払うこととされた。

2 原告らが申告において本件相続財産から控除した退職金債務について(証拠により認定した事実については、適宜書証を掲記する。その余の事実については、いずれも当事者間に争いがない。)

(一) 甲野病院退職金規程(昭和四八年一月一日より実施。以下「本件退職金規程」という。)は、甲野病院の就業規則(昭和四四年七月一日より施行。以下「本件就業規則」という。)二八条二項により職員が退職する場合に支給する退職金について定めたものである。

本件退職金規程一条によると、<1>定年退職(満六〇歳)、<2>業務上又は業務外の事由による死亡、業務上又は業務外の事由による傷病のため就労が困難となった時、<4>自己の都合による場合、のいずれかに該当するときは退職金を支給し、その場合でも懲戒解雇等の一定の事由がある場合には退職金を支給しないものとされている。

同二条によると、退職金額は、退職時の基本給に別表4の支給率表(<1>自己都合、<2>定年・死亡、<3>業務上死亡の退職理由に分類されている。)に基づく支給率を乗じた金額であるとされ、同四条によると、在職中特に功労のあった者については、退職金のほか功労金として相当の額を加算することができるものとされている。

(二) 本件分割協議書には、原告一郎が太郎から承継する債務の一部として未払金一億四五三三万八〇〇七円が記載されており、原告らが被告に提出した未払金の明細書には、その内訳中に原告一郎の退職金七六五七万四五〇〇円、春子の退職金一八九〇万五六六六円(合計九五四八万一六六円。以下「本件各退職金」という。)が記載されている。

本件各退職金は、別表4の支給率表のうち定年・死亡を理由とする場合の支給率を適用するなどして別表5のとおり計算されたものである。

(三) 平成二年一月一九日、六〇〇九万二六〇〇円(前記(二)のとおり原告一郎に支給するものとされた退職金額から所得税・住民税の源泉徴収相当額一六四八万一九〇〇円を控除したものと同額)が、第一勧業銀行成増支店の甲野病院名義の普通預金口座から引き出され、同支店の原告一郎名義の普通預金口座に入金された。同日、一八〇八万四五六六円(前記(二)のとおり春子に支給するものとされた退職金額から所得税・住民税の源泉徴収相当額八二万一一〇〇円を控除したものと同額)が右甲野病院名義の普通預金口座から引き出され、同支店の春子名義の普通預金口座に入金された。同日、右春子名義の普通預金口座から一八〇〇万円が引き出され、右原告一郎名義の普通預金口座に入金された。

平成二年五月二二日付けで、同年一月一九日に春子が一八〇〇万円を原告一郎に病院運転資金として貸し付けた旨の金銭消費貸借契約公正証書が作成された。

(四) 平成二年一月一一日、原告ら及び花子は、太郎に係る平成元年分の所得税の準確定申告書を被告に提出したが、右申告書に添付されていた所得税青色申告決算書(一般用)には、事業所得の経費として退職金九六二〇万四九〇六円が記載されている。

3 本件各課税処分に係る経緯(以下の事実は、いずれも当事者間に争いがない。)

原告らの本件相続に係る相続税の申告とこれに対する課税処分等の経緯は、別表1記載のとおりである。

すなわち、原告ら及び花子は、平成二年三月五日に本件相続に係る相続税について申告(以下「本件各申告」という。)をしたところ、被告は、原告ら及び花子に対し、平成三年三月一一日付けで更正をするとともに、原告らに対しては更正に係る過少申告加算税の賦課決定をした。原告らは、原告らに対する右更正及び右更正に係る過少申告加算税の賦課決定を不服として、同年五月七日、被告に対して異議申立てをしたが、被告は、同年八月二九日付けでこれを棄却する旨の決定をした。そこで原告らが、同年九月二七日、国税不服審判所長に対して審査請求をしたところ、同所長は、平成六年六月三〇日付けで原告らに対する右更正及び右更正に係る過少申告加算税の賦課決定の一部を取り消し、その余の請求を棄却する裁決をしたものである。

4 本件相続に係る相続税の課税価格の内訳等

(一) 被告は、本件相続財産から控除すべき債務の内容については、別表2の1の順号10ないし16「債務控除額」の原告一郎欄(そのうち、順号10の公租公課の内訳については別表3の1、順号13の未払金の内訳については別表3の2、順号15の退職給与引当金の内訳については別表3の3に各記載したとおりである。)記載のとおりである旨主張し、課税価格については、別表2の1の順号18「課税価格」の原告ら各欄記載のとおりであり、納付すべき税額については、別表2の2の相続税額の計算明細表記載の計算過程により、別表2の1の順号19「相続税額」の原告ら各欄記載のとおりとなる旨主張する。そして、被告は、原告らに課されるべき過少申告加算税額については、本件各更正により原告一郎が新たに納付すべき税額八六三万四五〇〇円及びそれ以外の原告らがそれぞれ新たに納付すべき税額五〇万二八〇〇円(各税額とも、本件各更正に係る原告らの納付すべき税額から本件各申告に係る原告らの納付すべき税額を控除した金額)につき、国税通則法六五条一項により、右各税額(同法一一八条三項により一万円未満の端数を切り捨てた後のもの)に一〇〇分の一〇を乗じた金額となるから、原告一郎については八六万三〇〇〇円、それ以外の原告らについては五万円となる旨主張する。

(二) 原告らは、本件相続財産から控除すべき債務の内容については、別表2の1の項目「債務控除額」中順号11、12、14、16以外の部分を否認し、順号13の未払金の金額に本件各退職金九五四八万一六六円が加算されることなどから、原告らの課税価格及び納付すべき税額は、別表1記載の本件各申告どおりとなる旨主張する。

二  争点

本件において、原告らは、債務控除額について争い、本件各退職金債務は、太郎と原告一郎及び春子との間の雇用契約が太郎の死亡に伴い終了したことに起因するから、相続税法一三条一項一号にいう「被相続人の債務で相続開始の際現に存するもの」で同法一四条一項にいう「確実と認められるもの」に当たるのに、これに当たらないとして本件相続財産からの控除を否認してされた被告の本件各課税処分は違法であると主張しているところ、本件の争点及びこれに対する当事者双方の主張の要旨は、以下のとおりである。

1 使用者の死亡による雇用契約終了の有無

(一) 被告の主張

雇用契約は、その使用者が死亡しても当然には終了せず、相続人等その事業を承継した者が使用者たる地位を承継するのであり、例外的に、契約の目的とする労務の内容が使用者の一身に専属するものである場合や労務の実現を使用者が指図する仕方や内容に重要な差異がある場合等、契約内容が人的色彩の特に濃厚なものであって、契約の目的を達成することや契約を遂行することが使用者の死亡により不可能または著しく困難となる場合にのみ、使用者の死亡によって当然に終了する。

そして、太郎と甲野病院全従業員との雇用契約が右のような例外的場合に当たらないことは明らかであるし、本件の経緯に照らせば、太郎の甲野病院経営の事業は、その相続人である原告一郎が承継し、それに伴って本件雇用契約における使用者たる地位も原告一郎が承継したものといえる。

次に、医療法七条一項に基づく都道府県知事の病院開設許可(以下「開設許可」という。)と雇用契約の関係についてみるに、開設許可は、開設者の死亡によって一旦失効し、承継人の速やかな許可申請を待って新しい許可の効果を前開設者の死亡時に遡及させることになっているが、開設許可は、行政法学上の許可に該当するから、許可を要する行為を無許可でした場合にも、処罰等の対象とされることがあるにとどまり、その私法上の効力は当然には否定されないし、無許可で病院を開設する行為と第三者を雇用する行為とは別個の行為であるから、病院開設が無許可であったというだけでは、第三者との雇用契約が無効となったり、終了したりするものでもない。また、同法は、開設許可の具体的要件について、申請に係る施設の構造設備及びその有する人員が同法二一条及び二三条の規定に基づく省令の定める要件に適合することを要求し(同法七条三項)、申請者の有する物的施設に着目している一方で、申請者の人的要件に着目しているとみられる要件は、営利目的による申請者を不許可とすることができる旨の規定(同法七条四項)のみであるから、開設許可は実質的にはいわゆる対物許可の範疇に属し、その許可の効果も本来は名宛人にとどまらずその承継人にも及ぶべきものであって、たとえ法形式上は病院開設者の死亡によって開設許可が失効するものとされているとしても、それによって従業員の勤務関係を終了させる必要までは何らみいだせない。

したがって、使用者と従業員との雇用関係は、開設許可の失効に関わらず、使用者の死亡によっても終了しない。本件において、原告一郎に対する開設許可がその許可年月日を太郎死亡の翌日である平成元年九月一二日にさかのぼって付与されたのも、太郎の死亡によっても病院経営の事業が終了していないことを当然の前提にしているのである。

殊に、春子は、本件相続の前後を通じて甲野病院の薬剤師として勤務しており、同女に支給されたとする退職金も、平成二年一月一九日に甲野病院名義の普通預金口座から春子名義の普通預金口座に一八〇八万四五六六円が振り替えられているものの、同日中に一八〇〇万円が引き出され、原告一郎の普通預金口座に戻されていることなどからすると、春子について勤務関係の終了という実態を認めることはできないし、同女に対する退職金も実質的には支給されたものといえず、単に春子に対する退職金支給の形式を整えたにすぎないものであって、同女に対する退職金債務が太郎固有の債務として本件相続財産から控除される余地はない。

以上のとおり、使用者である太郎の死亡によって同人と甲野病院従業員との雇用契約が当然に終了したものとはいえないから、それに伴う本件退職金債務を本件相続財産から控除することはできない。

(二) 原告らの主張

合併や相続等によって企業主体に変更があった場合、雇用契約関係が新企業に当然に承継されるか否かは争いがあるが、当然に承継されるとする考えも、新企業との雇用関係の成立を認め被用者を保護することに主眼があるのであって、被用者が雇用関係の承継を欲しない場合には、雇用関係の消滅が認められなければならないのは明らかである。これを本件についてみるに、原告一郎及び春子は、いずれも雇用契約関係の承継を望まなかったのであるから、太郎と原告一郎及び春子との雇用契約は、太郎の死亡によって終了したものである。

加えて、病院開設者の死亡により開設許可は失効し、相続人等が同一場所で引き続き病院経営をする場合にも、改めて開設許可を得なければならないのであるから、相続人において当然に業務の承継ができるものではなく、原則として雇用関係の消滅が認められなければならない。

殊に、原告一郎は、平成元年九月二八日付けで新たに開設許可を受け、甲野病院の事業主体となったのであるから、同人については本件雇用契約の継続はあり得ないし、同人は、甲野病院の勤務医師から経営者になったことで、その労働の内容や性質に重大な変動があったのであって、実質的に単なる従前の勤務関係の延長とみる余地はない。

また、春子も、甲野病院の事業主体が本件相続によって太郎から春子の配偶者かつ同居の親族である原告一郎に直接承継されたことに伴い、以後原則として労働基準法九条の労働者には該当しないことになり、所得税法上も青色事業専従者となるなど、本件相続の時点で勤務関係に重大な変動が生じたから、同女に対する退職金は、実質的にみれば<1>退職すなわち勤務関係の終了という事実によって初めて給付され、<2>従来の継続的勤務に対する報奨ないしその間の労務の対価の一部の後払であり、<3>一時金としての性質を有するものといえ、税法上も退職金と評価すべきである。

以上のとおり、使用者である太郎の死亡によって原告一郎及び春子との間の雇用契約が終了しているところ、本件各退職金は勤務関係の終了によって初めて給付された従来の継続的勤務に対する報償たる一時金であるから、太郎との雇用契約に係る退職金債務として本件相続財産から控除すべきことは明らかである。

2 雇用契約終了の時期

(一) 被告の主張

本件雇用契約は、太郎の死亡によっても当然には消滅しないが、原告一郎については、甲野病院の経営を承継して自ら使用者となった以上、被用者たる地位を失って退職したとみる余地はある。

そこで、本件雇用契約終了の時期について検討するに、一般に相続人は、被相続人の一身に専属したものを除き、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継し(民法八九六条)、相続人が数人あるときは、相続財産はまず共同相続人の共有に属することとなり(同法八九八条)、その後共同相続人間の遺産分割協議を経て各相続人に個別具体的な権利義務として承継されるのであって、雇用契約における使用者たる地位も、相続開始とともにまず共同相続人に承継され、その後遺産分割協議によって事業を引き継ぐこととなった相続人に承継されることとなる。

そして、共同相続人間で行われた遺産分割の効力は、第三者の権利を害する場合を除き、相続開始の時点にさかのぼって効力を生ずるものとされているから(民法九〇九条)、遺産分割協議の結果被相続人の財産上の権利義務を承継することになった相続人は、民法上は、共同相続人間の共有状態を経ずに、直接被相続人から財産上の権利義務を承継することになるが、遺産分割の遡及効は、遺産分割協議の成立以前に右共有状態を前提として発生した事実及び法律関係までも無効にするものではなく、共同相続人間における共有状態という事実を前提に課税関係を整理した方が実質所得者課税の原則(所得税法一二条)や課税法律関係の安定の面から合理的であるから、課税法律関係を考慮するに当たっては、遺産分割の遡及効は認められないものというべきである。

また、仮に、課税法律関係を考慮するに当たって遺産分割の遡及効が認められるとしても、被相続人は、その死亡の時点では権利能力を喪失しているから、相続人は、被相続人が死亡直前において有していた一切の権利義務をその死亡時において承継するものと解するほかはないところ、原告一郎の退職の事実が、太郎の死亡時より前に発生したものとはいえないから、原告一郎に対する退職金債務が、本件相続開始の際に現に存在していたとする余地はない。

なお、相続人が一人の場合には遺産分割の協議を行う余地はないが、この場合でも、相続人は、自己のために相続の開始があったことを知ったときから三か月以内に単純若しくは限定の承認又は放棄をしなければならず(民法九一五条一項本文)、単純若しくは限定の承認をしたとき又は単純承認をしたものとみなされたときに初めて、相続開始時にさかのぼって被相続人の一切の権利義務を承継することとなる(同法九二〇条ないし九二二条)ところ、限定承認又はみなし単純承認の場合には当然に権利義務の承継と相続開始との間には時間的間隔が生じることになるし、単純承認の場合でも、単純承認の意思表示と相続開始との間には時間的間隔があることになる。

したがって、従業員が使用者の死亡によりその地位を承継することにより従業員の地位を失い、これが退職事由に該当するとしても、従業員による使用者の地位の承継は、相続人が一人であると複数であるとを問わず常に使用者の死亡の時点より後に生ずることになるから、これによる退職金債務も、被相続人の債務で相続開始の際現に存するものとはいえない。

これを本件についてみるに、本件分割協議書に基づき原告一郎が太郎の事業を承継したために原告一郎との関係で本件雇用契約が消滅したとしても、右消滅は遺産分割協議が整った時点で使用者と被用者の地位が同一人である原告一郎に帰属したことによって初めて生じるのであるから、そこで発生すべき退職金債務も原告一郎自身が負うべき債務であって、相続開始時における太郎固有の債務であったということはできない。

(二) 原告らの主張

退職金は、通常、算定基礎賃金に勤続年数別の支給率を乗じて算定されるために、一般には賃金の後払いと性格付けられているが、他方では功労報償的性格をも有しているから、就業規則等で退職金の支払が定められている場合には、使用者は、勤務関係が継続している間に抽象的な退職金支払債務を負担していることになり、右債務は、雇用契約終了の時点で具体化することとなる。そして、前述のとおり、原告一郎と春子に係る本件雇用契約は太郎の死亡によって終了するから、右死亡の時点で本件各退職金債務も具体化し、本件相続財産から控除すべきこととなる。

この点につき、被告は、被相続人の事業の被用者であった相続人が遺産分割により右事業を相続して雇用契約上の使用者たる地位を承継した場合、遺産分割の遡及効が民法九〇九条ただし書によって制限され、一旦使用者たる地位が共同相続人に承継されることになる結果、相続開始の時点では被相続人と右相続人との間の雇用契約は終了していないことになると主張する。

しかしながら、民法九〇九条ただし書は、遺産分割協議成立以前に共同相続人が遺産に属する個々の財産を処分した場合に第三者を保護する規定であるから、右規定によって保護されるべき第三者とは遺産分割協議成立以前に遺産に属する個々の財産を譲り受けた者に限られるものと解すべきところ、本件においてはかかる第三者は存在しない。

さらに、太郎が事業として営んでいたのは開設許可が必要な病院業であって、開設許可は名宛人の死亡によって失効するのであるから、共同相続人において事業を承継するためには共同相続人において開設許可を取得する必要があることになる。しかしながら、本件においては原告一郎以外の相続人は開設許可を得ていないから、仮に被告のいうように共同相続人が一旦甲野病院を承継したものと解するとすれば、共同相続人は無許可開設による刑罰を受けることになる。

しかも、太郎が死亡した場合に、太郎の相続人らの中でただ一人医師免許を有していた原告一郎が甲野病院を承継することは、遺産分割協議書の作成を待つまでもなく太郎生存中からの了解事項であって、一時的にせよ共同相続人において甲野病院を承継する意思は全く存しなかったし、実際にも、本件相続の直後に原告一郎により開設許可の申請がされ、本件相続の翌日にさかのぼって右許可がされた上、本件相続の直後から、甲野病院における診療行為は原告一郎の責任において行われたものである。

以上によれば、遺産分割の遡及効が制限されるという被告の右主張が失当であるのは明らかであり、むしろ、原告一郎が本件相続によって直接に甲野病院を承継したものと認めることこそが、実質課税の原則に適うものというべきである。

なお、被告は、仮に本件において遺産分割の遡及効の適用があるとしても、本件相続開始の時点では太郎は権利能力を喪失しているから、原告一郎に対する退職金債務が発生する余地はないとも主張する。

しかしながら、判例上、生命侵害に基づく慰謝料請求権や逸失利益が被害者に帰属することが認められていることや、退職金が賃金の後払い又は在職期間中の功労報償としての性質を有し、在職期間中常に抽象的には存在していることなどに照らせば、退職金額の確定が本件相続開始時であることをもって、退職金債務が被相続人の債務ではないとする被告の主張は失当である。

3 退職金債務の発生及び確定の有無

(一) 被告の主張

本件各退職金の金額は、本件退職金規程の支給率表の定年・死亡欄の支給率を適用し、これに功労加算を行って算定されたものであるが、本件退職金規程は退職金支給事由として<1>定年退職(満六〇歳)、<2>業務上または業務外の事由による死亡、<3>業務上または業務外の事由による傷病のため就労が困難となった時、<4>自己の都合による場合、の四つの事由を定めているのみで、使用者の死亡は退職金の支給事由とされていない。また、本件退職金規程の支給率表の定年・死亡欄にいう死亡とは、従業員の死亡を意味するから、使用者の死亡の場合に仮に従業員に退職金を支給しようとしても、支給率表に定める<1>自己都合、<2>定年・死亡、<3>業務上死亡のいずれの支給率を適用すべきか、本件相続開始の時点で一義的に明らかであったとはいえない。

加えて、功労加算については、本件退職金規程が実施された昭和四八年一月一日以降、本件各退職金が支給されたとされる時まで、原告一郎及び春子を除いて一度も適用されていなかったことからみても、原告一郎及び由子に対して功労加算を適用するかどうか、適用するとしても金額の算定方法をどうするかについて、本件相続開始時点で確定していたとは認められない。

さらに、有給休暇買上相当額については、有給休暇の残日数に応じて算定された金額を退職金の一部として支給したもののようであるが、この支給の根拠を本件退職金規程にみいだすことはできないから、右金額を退職金の一部として支給するかどうか、支給するとしても金額の算定方法をどうするかについて、本件相続開始の時点で確定していたとはいえない。

したがって、本件各退職金債務は、その金額を本件相続開始時において合理的に算定することはできないから、確実と認められる債務とはいえないのである。

(二) 原告らの主張

およそ退職金規定が雇用関係終了の全ての原因を網羅して規定することは不可能であるから、当該雇用関係の終了原因が退職金規定に存在しなかったからといって、使用者が退職金の支払を免れるものではない。

これを本件についてみるに、本件退職金規程の支給率表には退職事由としては使用者の死亡は規定されていないが、これによる退職はいわば使用者側の都合による退職といえるから、労働条件を明確にして労働者を保護しようとした就業規則の作成届出義務の趣旨からすれば、この場合にも退職金を支払う必要があるのは当然である。

また、相続財産から控除すべき債務における確実性(相続税法一四条一項)が認められるためには、その金額の具体的な確定までは要せず、法律上合理的に算定可能であれば足りるものというべきであり、行政解釈上も、債務の存在自体が確実であれば、相続開始時の現況によって確実と認められる範囲の金額を相続財産から控除することとされている(相続税法基本通達一四-一)。

これを本件についてみるに、右支給率表によれば退職金算定において基本給に乗じられる係数は、自己都合の場合が最も低く、業務上死亡が最も高く、定年・死亡はその中間となっているところ、使用者側の都合による退職の場合は、右係数は自己都合の場合よりも高く、業務上死亡の場合よりも低くすべきだし、退職金規定のうち定年・死亡を退職事由とする規定は原則的な規定と解すべきだから、本件各退職金においても、本件相続開始時において、定年・死亡に係る係数により合理的に算定することができたのである。

また、労働条件などに関し、就業規則等の明文の規定に基づかない取扱いが長期にわたり反復継続して行われ、労働契約の内容となっている場合には、右取扱いは労使慣行として法的拘束力が認められるところ、退職の際の未消化有給休暇の買取りも、本件雇用契約において長年にわたり行われ慣行化した労働条件であるから、労使慣行というべきであって、これを退職金の算定に含める必要があったものである。そして、その金額も、本件相続開始の時点において、給与日額に未消化有給休暇の日数を乗じることにより合理的に算定することができたのである。

さらに、本件各退職金中の功労加算金は、本件退職金規程四条に基づき、勤務内容や勤務年数等を勘案して、退職時の基本給に勤務年数及び功労の程度による支給率を乗じて支給される金額であるところ、原告一郎は医師兼管理者として昭和四〇年九月一日から、春子は技術員兼薬剤師として昭和四一年五月一日から勤務し、いずれもその勤務内容が良好で、太郎の事業に功労があったことは明らかであるから、これに功労金を支給する必要があったものである。そして、その金額も、本件相続開始の時点において、基本給に勤続年数及び四五パーセントの支給率を乗じて合理的に算定することができたのである。

したがって、本件相続開始の時点において、本件各退職金の金額は法律上合理的に算定できたものであるから、確実と認められる債務と解すべきである。

第三  争点に対する判断

一  争点1(使用者の死亡による雇用契約終了の有無)について

1 雇用契約の使用者がその権利を被用者の承諾なく第三者に譲渡することは禁じられている(民法六二五条一項)。これに対し、使用者の権利ないし地位が相続などによって包括承継されるか否かについての明文の規定はないが、一般に労務の内容は使用者の一身に専属するとまではいえないから、労務実現を使用者が指図する仕方や内容によって、契約自体に重要な差異を生ずるような場合を除いては、雇用契約の使用者たる地位は相続性を有し、その死亡は雇用契約の終了原因とはならないものと解される。

これを本件についてみるに、太郎と甲野病院全従業員との雇用契約は、甲野病院を運営するための労務の供給及びこれに対する報酬の支払をその中核としているところ、《証拠略》によれば、同病院は五一の病床を有し、医療法上の病院として傷病者が科学的でかつ適正な診療を受けることができる便宜を与えることを目的として組織され、かつ運営される(同法一条の五)有機的な企業体であることが認められ、その雇用関係も企業主の個人的要素によっては大きく影響されない程度に客観化されていることが明らかであるから、本件相続によってその使用者たる地位は太郎の相続人に承継されたものというべきである。

これに対し、原告らは、被用者が雇用関係の承継を欲しない場合には、雇用関係の消滅が認められなければならない旨主張するが、営業譲渡のように使用者が民法六二五条一項の規定にもかかわらずその権利を第三者に譲渡した事例においてはともかく、相続のような包括承継においては右雇用関係の終了も相続による使用者たる地位の承継が生じた後の事情と解すべきであるから、原告らの右主張は失当である。

2 原告らは、病院開設者である太郎の死亡により開設許可が失効する以上、同人と甲野病院全従業員との雇用契約も消滅するとも主張する。

しかしながら、医療法七条一項によれば、病院に係る開設許可は、診療所等と異なり、その開設者が医師等の資格を有しているか否かにかかわらず必要であり、同条三項、二一条及び二三条によれば、申請に係る施設の構造設備及びその有する人員が同法二一条及び二三条の規定に基づく省令の定める要件に適合するときは原則として与えられるものとされているなど、科学的かつ適正な診療を施すための有機的、模範的な医療施設としての人的物的設備が具備されていることを主たる要件として与えられるものであることが明らかである。そうすると、病院に係る開設許可が失効しても、そのままでは適法に医療法上の病院を開設できないという効果が生じるにとどまるものということができ、それ以上に、病院の経営者と従業員との間の雇用契約が将来に向けて消滅したり無効になったりするものと解する理由も必要もないというべきである。

もっとも、病院に係る開設許可の失効後、医療施設としての人的物的設備が欠けたことなどによって、近い将来再度開設許可を受けられる見込みもなくなったような場合には、病院の経営者と従業員との間の雇用関係が履行不能によって消滅するものと解する余地もないとはいえないが、弁論の全趣旨によれば、甲野病院は同病院に長年医師として勤務してきた原告一郎がそのまま承継することが太郎の生前から同人の推定相続人間における了解事項であり、本件相続の前後を通じて退職した従業員もいなかったことが認められ、現に原告一郎は太郎の経営時と同一名称・同一場所における病院の開設許可を本件相続開始の八日後に申請し、本件相続開始の翌日にさかのぼって右許可を得ていることからしても、太郎の死亡によって開設許可が失効した時点で当然に本件雇用契約が社会通念上履行不能になったものと解することはできない。

3 以上によれば、使用者の死亡によっても雇用契約は当然に消滅することなく、特段の事情のない限り雇用関係は相続人に承継されるものというべきであるが、被用者が使用者の相続人であるときは、その使用者の地位を承継することにより権利義務の混同を生じる範囲で雇用契約も終了することは明らかである。

この点を本件についてみれば、太郎の死亡によって甲野病院全従業員との雇用契約は消滅することなく、相続人である原告ら及び花子に不可分に承継され、遺産分割の結果、相続開始時にさかのぼって原告一郎が使用者たる地位を承継したものというべきであるから、太郎と春子との間の雇用契約は、本件相続によって終了したものということはできない。

なお、原告らは、本件相続によって勤務関係に重大な変動が生じたから、本件退職金をもって、実質的にみて税法上退職金と評価すべきであるとも主張する。

確かに、私法上雇用契約が終了してはいなくても、勤務条件等に大幅な変更があって実質的に退職と同視しても不合理ではない場合に、その者に支給された給付を所得税法上は退職所得として取り扱う余地があるということはできる。しかしながら、私法上の雇用契約の継続中に得た給付が所得税法上の所得の種類としての退職所得に区分されたとしても、相続により取得した財産の価格の算定においては、雇用契約の継続が認められる被用者に対する右給付額は使用者の地位を承継した相続人によって支払われるものであって、取得財産の価格から控除すべき「債務」と解すべき理由はなく、他に春子の勤務関係の変更をもって、相続税の計算上これを退職と解すべき理由もない。

これに対し、原告一郎については、本件相続によって太郎の経営に係る甲野病院の事業を承継してその使用者たる地位を取得したことにより、これと本件雇用契約上の労務者たる地位との間で混同が生じたものと解されるから、結局、本件雇用契約が終了したことに帰するものというべきである。

二  争点2(雇用契約終了の時期)について

1 既に説示したところによれば、雇用契約の終了時期は、原告一郎との関係でのみ問題となる。そして、右雇用関係の終了時期を論ずる意味は、相続税法一三条に規定する「相続開始の際」に太郎の原告一郎に対する退職金債務が現存するといえるかどうかということにある。

ところで、相続税法は、相続により取得した財産の価額の合計額をもって相続税の課税価格とし(一一条の二第一項)、課税価格に算入すべき価額は相続によって取得した財産の価額から非課税財産の価額を控除し(一二条)、更に「被相続人の債務」で「相続開始の際」に「現に存する」もので「相続によって財産を取得する者の負担に属する」ものを控除することとしている(一三条第一項)が、この趣旨は、被相続人の借入金等の債務が存するときは、相続の結果相続人の負担に属することとなるこれらの債務の額を積極財産の価格から控除し、相続によって取得する財産の実質的価格をもって課税価格とすることにある。そして、時期、時刻、時を示すには「時に」という用語があるのに、「際」との用語が用いられていることに照らせば、「相続開始の際」とは、相続の開始、すなわち被相続人の死亡及び被相続人の死亡に近接し、かつ、社会通念上これから起因して生じる事態の経過を含めた時間の範囲を示すものと解すべきである。そして、「被相続人の債務」で「現に存する」とは、その債務の性質及び発生原因に照らして、被相続人に属すべき債務がその発生要件を充足していることにあると解すべきである。

この点につき、被告は、被相続人はその死亡の時には権利能力を喪失しているから、相続人が相続によって承継する一切の権利義務とは、実際には被相続人が死亡直前に有していた権利義務と解さざるを得ないところ、被相続人の死亡に基づく相続人に対する退職金債務はどんなに早くても相続開始時にしか発生しないから、本件においても原告一郎に対する退職金債務を本件相続財産から控除する余地はない旨主張する。

しかしながら、右に説示した点に加えて、就業規則等に死亡退職手当金の規定がある株式会社の従業員が死亡した場合、その者の相続人に対する相続税の算定に当たっては、二重課税回避のためその者の保有していた同社の株式を純資産価額方式で評価する際には正味財産額から右死亡退職金を控除するものと解されていることとの均衡などに照らすと、社会通念上も被相続人に属すべき債務が同人の死亡の際にその発生要件を充足しているときは、その金額が確定できる範囲内においては相続財産から控除すべき債務に該当するものというべきであるから、被告の右主張は失当である。

2 そこで本件について検討するに、花子が家庭用財産を相続したほかは、原告一郎が甲野病院を含む本件相続財産及び債務の全てを相続し、その代償として他の相続人に対して代償金を支払うこととされたことは当事者間に争いがない。そうすると、本件相続の開始によって、原告ら及び花子が甲野病院の全従業員との雇用関係における使用者たる地位を承継し、その後の遺産分割によって、原告一郎は、本件相続開始の時点にさかのぼって甲野病院での使用者たる地位を取得し、混同の結果太郎と原告一郎との間の雇用契約が終了したことになるから、右終了の時期は、本件相続開始の際であると解するのが相当である。

これに対し、被告は、遺産分割の遡及効は、遺産分割協議の成立以前に右共有状態を前提として発生した事実及び法律関係までも無効にするものではないなどとして、課税法律関係を考慮するに当たっては、遺産分割の遡及効は認められない旨主張する。

しかしながら、民法九〇九条ただし書の「第三者の権利を害することができない」との文言や、右規定の趣旨が遺産分割の遡及効によって取引の安全を害することを防止することにその趣旨があることに照らすと、第三者が個々の遺産についての相続人の持分につき権利を取得した場合に初めて右ただし書が適用されるものと解すべきところ、本件の全証拠に照らしてもかかる第三者が出現したものとは認められないし、遺産分割前の共有中に生じた遺産からの果実は共同相続人の共有に帰属するものと解されるとしても、遺産それ自体は原則として被相続人から直接に承継したものと解するほかはないところ、本件においても、本件相続開始時から遺産分割協議が成立するまでの間の甲野病院の事業から生じた収益についてはともかく、甲野病院の事業それ自体は本件相続開始と同時に原告一郎に承継されたものといわざるを得ないから、被告の右主張は採用することができない。

3 なお、被告は、被用者が使用者を単独で相続した場合についてもふれ、単純承認、限定承認、放棄の意思表示の存在及びこれを決するための熟慮期間(民法九一五条一項本文)の存在を理由として、使用者の死亡による雇用関係の終了は承認等の意思表示又は熟慮期間が経過した時であるとし、共同相続の場合と同様に、雇用関係の終了は相続開始の際には生じていないと主張する。しかしながら、相続の効果は相続開始の時に発生し(同法八九六条)、単純承認の効果は右の相続本来の効果であって、限定承認、放棄については、相続の効果が相続開始の時に発生することを前提として、相続によって消滅した権利の回復(同法九二五条)、あるいは放棄の効果の遡及(同法九三九条)が規定されているのであるから、現実の時間経過の中においては熟慮期間中の相続財産の管理という状態が想定できるとしても、法的には相続開始によって地位の混同による雇用関係の終了が生じるのであって、熟慮期間の経過を要するものではない。

そして、相続税の算定において、相続の形式が単独相続か共同相続かによって相続財産の範囲を異にする合理性はないというべきであるから、共同相続においては相続開始から遺産分割の成立による具体的な地位承継者の確定まで時差が存するとしても、その故に「相続開始の際」の解釈において区別する理由はないというべきである。

4 したがって、太郎の原告一郎に対する退職金債務が本件相続開始の際に発生して確定し、かつ、その履行が確実であると認められれば、右債務は、太郎と同原告との雇用関係の終了を原因として相続人としての同原告の負担において支払うべき太郎の債務と解することができるから、本件相続財産から控除すべきこととなるものというべきである。

三  争点3(退職金債務の発生及び確定)について

1 本件各退職金の金額は、本件退職金規程の支給率表(別表4)の定年・死亡欄の支給率を適用しこれに功労加算を行って算定されたものであることについては当事者間に争いがない。

ところで、退職金は、労働基準法上その支給が強制されているわけではなく(同法二〇条参照)、退職金を支給するか否かは、本来は使用者の裁量において定め得るものといわざるを得ないから、雇用関係の終了、すなわち退職の事実が生じたというだけでは、当然に従業員の退職金請求権が発生するわけではない。

そこで、まず、原告一郎が、本件就業規則に基づく退職金請求権を太郎に対して有していたかについて判断するに、甲二号証(本件就業規則)及び甲三号証(本件退職金規程)によれば、本件就業規則二八条二項及び本件退職金規程一条は、退職金の支給範囲について、<1>定年退職(満六〇歳)、<2>業務上又は業務外の事由による死亡、<3>業務上又は業務外の事由による傷病のため就労が困難になった時、<4>自己の都合による場合と定め、右各事由に該当する場合でも、(1)勤続三年未満の者、(2)嘱託又は臨時職員(パートタイマーを含む)、(3)禁固以上の刑に処せられ失職した者、(4)同盟罷業、怠業その他争議行為又は怠業的行為をした者には支給しない旨を定めていることが認められる。

そうすると、本件就業規則及び本件退職金規程は、定年や傷病による就労困難など、少なくとも従業員側に発生した何らかの事情に基づいて退職する場合でなければ当然には退職金を支給しない旨を定めているものと解するほかはない。

また、甲野病院は太郎が設立したものであって、本件相続開始まで使用者の死亡による退職の事例はなかったことは明らかであるから、使用者の死亡を契機に退職した者に対し退職金を支給することが労使慣行となっていたものと認めることもできない。

この点について、原告らは、退職金規定が雇用関係終了の全ての原因を網羅して規定するのは不可能であるから、当該雇用関係の終了原因が退職金規定に存在しないからといって、退職金の支払を免れるものではない旨主張する。確かに、退職金規定が雇用契約終了の全ての原因を網羅しているとは限らないから、退職金規定の合理的解釈によって、規定そのものに記載されていない雇用関係の終了事由であっても退職金規定に定める退職事由に含まれると解すべき場合があることは否定できず、本件においても、太郎の死亡を機に同人の行っていた事業が廃止され、甲野病院の全従業員が解雇された場合等には、その全員について、本件退職金規程の適用が検討される事態も想定されないではない。しかしながら、被相続人の事業が相続人たる被用者に承継された場合は、事業に係る積極財産は相続という原因によって相続人の所有に帰するのであって、この財産移転原因以外に退職金支給という財産移転原因を実施する実体私法上の理由はないことに加えて、甲野病院の事業を原告一郎が承継するであろうことは原告らを含む相続人共通の理解であったことも前記認定のとおりであるし、本件退職金規程が事業主の死亡を退職の事由として予定していないことはその文言から明らかであるから、本件退職金規程の解釈として、被用者相続人が事業承継をしたことによる雇用関係の終了を退職金の支給事由としていると解する余地はない。

したがって、本件相続開始の際、原告一郎の太郎に対する退職金請求権の発生はなく、これに対応する太郎の債務は存在しなかったことになる。

2 また、功労金についても、《証拠略》によれば、功労金について規定する本件退職金規程四条がその表題を(功労加算)としており、在職中特に功労のあった者については退職金のほか相当の額を加算することができる旨を規定するのみで、それ以上に具体的な計算方法については何ら規定していないことが認められることからすれば、功労金請求権は退職金請求権を有していることを前提にしか発生しないし、その金額を一義的に算定することも不可能であるというほかはない。

さらに、有給休暇買上相当額についてみても、甲三号証によれば、本件退職金規程中には何らこれに関する規定はないことが認められるし、本件相続開始前までに、退職金に右金額を加算するとの労使慣行ないし黙示の労働契約が生じていたとの事情もうかがわれないから、かかる労使慣行等は存在していなかったものと推認するほかはない(原告らは、甲八号証(従業員の退職金計算書)によれば右労使慣行が存在していたことは明らかである旨主張するが、甲八号証は平成三年一二月三一日付けで退職した従業員一名の退職金に係るものであるから、この存在のみでは右認定を覆すには足りない。)。そうすると、退職に際しての有給休暇買上請求についても、未だこれを本件相続開始時における原告一郎の太郎に対する請求権として認めることはできないものと解すべきである。

3 したがって、原告一郎が甲野病院を退職したことに基づく太郎に対する退職金請求権は、功労金及び有給休暇買取額に相当する部分を含めて、未だ発生していなかったものと解するのが相当である。

そうすると、原告一郎の太郎に対する退職金請求権は、本件相続開始の際には、その存在が認められず、これに対応すべき太郎の退職金債務もその存在が確定していたということはできないので、本件相続財産から控除することはできないものというべきである。

四  本件各課税処分の適法性について

以上によれば、本件各退職金にかかる債務を本件相続財産から控除する余地はないものというべきであるから、本件相続財産から控除すべき未払金の金額は、被告の主張するとおり、これを別表2の1の順号13記載の金額であると認めることができる。

なお、原告らは、本件相続財産から控除すべき債務の金額中、別表2の1の順号10の公租公課のうち別表3の1の順号2記載の太郎の平成元年分所得税の金額と、別表2の1の順号15の退職給与引当金の金額についていずれも被告主張の金額を否認しているが、《証拠略》によれば、原告らの右否認は、右金額が被告主張金額以上であるとの趣旨ではなく、かえって、本件各退職金債務が太郎の債務になることにより太郎の事業所得の経費が増え、また退職給与引当金も取り崩される結果、右否認に係る各債務については被告主張額よりも減少するとの趣旨であることが認められるから、右各債務が被告主張額を上回らないとの点に関しては当事者間に争いがないことに帰するものというべきである。

以上認定した事実及び当事者間に争いのない事実を総合すれば、本件各更正に係る債務控除額は被告の主張するとおりであることに帰する。

そして、本件各更正に係る課税価格及び相続税額の算出についても、別表2の1及び同2の2の計算過程に誤りは認められないから、結局、本件各更正は適法なものというべきである。

加えて、本件各賦課決定についてみても、以上認定した事実及び弁論の全趣旨によれば、その計算過程には誤りがないものと認められるから、適法なものというべきである。

五  結論

以上のとおりであるから、原告らの請求はいずれも理由がないので棄却することにし、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 富越和厚 裁判官 竹田光広 裁判官 岡田幸人)

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